10月10日は「銭湯の日」!
毎年10月10日は「銭湯の日」って知ってました?
1991年(平成3年)に東京都公衆浴場商業協同組合によって銭湯の日は制定されました。
なぜ10月10日が銭湯の日に制定されたのか?
今回は銭湯の歴史や雑学、銭湯の日のイベント情報などをご紹介したいと思います。
10月10日がなぜ「銭湯の日」なの?
10月10日は我が国で初めてのオリンピックが東京で開催された日です(1964年10月10日)。
現在は「スポーツの日」として定着していますが、以前は10月10日は「体育の日」となっていました。
東京オリンピック開催を機に国民のスポーツに対する意欲が高まり、健康増進の目的でスポーツ人口は年々増加していきました。
スポーツで汗をかいた後に入浴することや、銭湯での入浴は健康に良いことが入浴実験でも証明され、スポーツと入浴は密接に関係していることが判明しましたことを理由に、東京都公衆浴場商業協同組合によって10月10日を銭湯の日として申請し、平成8年日本記念日協会の登録認定を受けました。
もう一つ言われているのは「1010(せんとう)」という語呂合わせです。
銭湯の歴史
そもそも銭湯っていつからあるのでしょうか?
風呂の始まりは、寺院の施浴
6世紀に渡来した仏教は、聖徳太子の積極的な導入政策もあり、国家宗教へと急速に成長しました。
その仏教では、沐浴の功徳を説き、汚れを洗うことは仏に仕える者の大切な仕事と考えました。
「温室教」という沐浴の功徳を説いた経文もあります。
それには、入浴に必要な七物【燃火(ねんか9)・浄水・澡豆(そうず)・蘇膏(そこう)・淳灰(じゅんかい)・楊枝(ようじ)・内衣(ないい)】を整えると七病を除去し、七福が得られると記されています。
寺院では七堂伽藍の1つに浴堂を数え、施浴が盛んに行なわれました。
奈良の東大寺や法華寺には、今でも大湯屋や浴堂が残っており、当時の名残りをとどめています。
家々には浴室がなく、町湯もなかった時代、寺院の施浴は宗教的な意味だけでなく、庶民にとって、うれしい施しであったわけです。
施浴によって、庶民が入浴の楽しみを知ったためでしょうか、平安時代の末には京都に銭湯のはしりともいえる「湯屋」が登場します。
鎌倉・室町時代の風呂ふるまい
奈良時代に始まった施浴の習慣は、鎌倉時代に入って最も盛んになります。
なかでも建久3年(1192)、源頼朝が後白河法皇の追福に鎌倉山で行なった100日間の施浴や、幕府が北条政子の供養に行なった長期間の施浴は特に有名で、『吾妻鏡』にも記されています。
室町時代に入っても、幕府や寺院により施浴の習慣は受け継がれます。
施浴は「功徳風呂」などと呼ばれ、一定の日にちを定めて庶民にふるまわれました。
さらに、施浴の習慣は個人にも広まります。
将軍足利義政夫人の日野富子は、毎年末に両親追福の風呂をもよおし、縁者たちを招待しました。
その際、風呂や食事をふるまったのは有名です。
このころから、風呂のある家では人を招いて風呂をふるまい、浴後には茶の湯や、酒宴をひらくなど楽しいひとときを過ごしました。
これがいわゆる「風呂ふるまい」で、庶民階級でも富裕な家は、近所の人々に風呂をふるまったり、また、地方でも村内の薬師堂や観音堂に信者が集まり、風呂をわかして入り、浴後は持参の酒・さかなで宴会をする「風呂講」が行なわれました。
江戸特代の風呂
江戸で最初の銭湯は、『慶長見聞録』(1614年刊)に、「天正19年(1591)伊勢与市という者が銭瓶橋(ぜにがめばし:現在の常盤橋付近にあった橋)のほとりに銭湯風呂を建てた」と記録にあります。
徳川家康が江戸入りした翌年で、城下町も整っていなかったころです。
それが慶長年間の終わり(17世紀初頭)には、「町ごとに風呂あり」といわれるほどに銭湯は広まりました。
江戸最初の銭湯は蒸し風呂だったと考えられていますが、やがて蒸し風呂の一種「戸棚風呂」が登場しました。
浴槽の底に膝をひたす程度に湯を入れ、下半身をひたし、上半身は湯気で蒸す仕組みです。
そして、浴室の出入口に引違い戸を付け、湯気のもれるのを防ぎました。
ところが、開閉が激しいと湯気が逃げてしまうので、工夫されたのが「石榴(ざくろ)口」です。
これは、三方はめ板で囲まれた小室に浴槽を置き、出入口に天井から低く板をさげ、湯気の逃げるのを防ぎました。
浴客たちはこの板をくぐり出入りします。
ところで、柘榴口と呼ぶようになったのは江戸時代特有の言葉遊びです。
当時は鏡を磨くのに柘榴の実を使ったので“かがんで風呂に入る(屈み入る)”を、“鏡鋳(かがみい)る”としゃれ、「石榴ロ」となったとか……。
また、現在のようにたっぷりの湯に首までつかる「据(すえ)風呂」ができたのも、慶長年間の末頃。
据風呂は蒸気ではなく、湯の風呂だったことから「水(すい)風呂」とも呼ばれ、一般の庶民の家庭に広まります。
当初は湯を桶に入れるくみ込み式でしたが、のちに、桶の中に鉄の筒を入れて、下で火をたく方法が発明されます。
これは「鉄砲風呂」といい、江戸で広まります。
一方、桶の底に平釜をつけ、湯をわかす「五右衛門風呂」は関西に多かったようです。
江戸庶民の社交場、湯女(ゆな)風呂と二階風呂
江戸時代の銭湯は朝から沸かして、タ方六つ(午後6時頃)の合図で終わります。
銭湯は上下の別なく、裸の付き合いができる庶民のいこいの場所でした。
やがて、銭湯で客に湯茶のサービスもするようになって、湯女が大活躍します。
というのは、この湯女たち、昼は客の背中を流していますが、タ方を境に、三味線を手に遊客をもてなします。
この湯女風呂は、商家の旦那衆や若者たちの間で大評判になります。
そんな中でも特に人気の高かったのが「丹前風呂」。
堀丹後守の屋敷前にある銭湯というところから名付けられましたが、ここの「勝山」という湯女がたいへんな人気で、「丹前の湯はそのころ皆のぼせ」と川柳によまれたほどです。
また、このあたりに集まる男たちの風俗を称して「丹前風」と呼び、歌舞伎にまで取り上げられました。
こうして湯女風呂は栄える一方で、全盛期には吉原遊廓がさびれるほどのにぎわいだったといいます。
一方、幕府は風紀上の理由から、たびたび禁止令を出しますが、ほとんど効き目はない状態でした。
しかし、明暦3年(1657)、幕府は湯女風呂を徹底的に取り締まり、湯女600人を強制的に吉原へ送りました。
こうして江戸の湯女風呂は廃止されました。
その後、銭湯は江戸庶民の憩いの場として親しまれました。
かつて湯女が客をもてなした2階の広間は浴客に開放され、茶を飲んだり菓子を食べたり、囲碁・将棋を楽しむ社交場として利用されるようになりました。
江戸の銭湯は混浴
江戸の銭湯は「入(い)り込(こ)み湯」といわれ、男女混浴でした。
これは江戸末期まで続きました。
石榴口の中は暗く、風紀を乱すものも少なくなかったのでしょう、何度か禁止令が出されます。
しかし、実際はなかなか改まらず、天保の改革(1841~43)の際、厳しく取り締まりが行なわれました。
その結果、浴槽の中央に仕切りを取り付けたり、男女の入浴日時を分けたり、また男湯だけ、女湯だけという銭湯も現われました。
時代は移って明治の世になると、明治政府は幕府以来の旧弊として、男女入り込み湯は特に厳しく禁止し、たびたび通達を出します。
しかし、長年の風習はそう簡単には改まりません。実際に混浴がなくなったのは明治中頃でした。
「石榴口」から「改良風呂」ヘ
明治時代になって、銭湯の様式は一変しました。
石榴口は取り払われ、屋根に湯気抜きが作られたり、浴槽と板流しを平面にしたり、洗い場もずっと広くなりました。
これは「改良風呂」と呼ばれ、評判になります。
後には、湯船の縁を少し高くして、汚れが入らない工夫もされます。
大正時代になると、さらに銭湯は近代化されて、板張りの洗い場や木造の浴槽は姿を消し、タイル張りに。
そして、昭和2年(1927)には、浴室の湯・水に水道式のカランが取り付けられ、衛生面も向上します。
今日では設備やサービスにもさまざまな趣向が凝らされ、サウナを設置したり、気泡風呂にしたり、スポーツ設備を整えるなど、ユニークな設備が登場しています。
一方、家庭での入浴法を熱心に工夫する人も多く、温泉ヘの行楽も盛んです。
日本人は、たんに清潔のためというだけでなく、風呂に“プラスα”を求める、根っからの“お風呂好き”なのです。
引用:東京銭湯(銭湯の歴史)
銭湯に関する豆知識
運動後に効果的に入浴する方法は?
運動した後には、お風呂で汗を流してさっぱりしたいですよね?!
しかも、運動後に入浴することで健康にもなれるなんてまさに一石二鳥です。
ただし、正しい入浴方法をしないと逆効果になってしまうので参考にしてみてください。
①運動後30分経って、ある程度クールダウンしてから入浴する。運動後30分以内に湯船に入ってしまうと脂肪燃焼効果を損なうようです。
②湯船のお湯の温度は39℃くらいのぬるま湯にして、20分以上ゆっくりと筋肉の付かれた部分をほぐしながら浸かると、翌日の筋肉痛が残りにくく、疲労回復に役立ちます。
なんで銭湯の壁面には「富士山」が描かれているの?
銭湯での入浴の楽しみの一つの壁面のペンキで描かれた富士山。
ペンキ絵は大正元年(1912)に神田猿楽町にあった「キカイ湯」のご主人が画家の川越公四郎に依頼して描かせたのが始まりとされています。
銭湯のペンキ絵に「富士山」が多い理由は子供の好きそうな絵を書いて、その絵を見ておとなしくお風呂に入ってもらいたいという目的から、縁起も良く老若男女に人気のある富士山を描く画家が多かったとされており、今日の銭湯=富士山の絵に繋がっているのでしょう。
ちなみに銭湯のペンキ絵は東京を中心に広がった文化で、西日本の銭湯にはペンキ絵が見られなかったらしいです。
銭湯で「コーヒー牛乳」を飲むのはなんで?
腰に手を当てて、キンキンに冷えたコーヒー牛乳を一気に飲み干し、「プハーっ」と・・・
なんとなくイメージしやすい絵面ですが、なんで銭湯でコーヒー牛乳を飲むようになったんでしょう?
時は昭和30年代。その頃から内風呂が徐々に増えてくる時代にさしかかりますが、まだまだ町には銭湯が多く、多くの人で賑わっていました。
銭湯には、当時まだ家庭にあるのが珍しかった冷蔵庫が設置されており、そこに目を付けた牛乳メーカーが、コーヒー牛乳をお風呂上がりの贅沢として売り出したのだそう。
その頃は、銭湯が15円に対して、コーヒー1杯が50円という時代。コーヒーの香りは贅沢品の象徴だったともいえます。
そんなコーヒーの芳しい香りを楽しめるコーヒー牛乳は、お風呂上がりの贅沢品だったんですね。
銭湯の日は「ラベンダー湯まつり」へ
東京都内の銭湯では恒例の「ラベンダー湯まつり」を開催します。
当日は花の部分だけを乾燥させたヨーロッパ産ラベンダーをたっぷり使ったラベンダー湯を実施するほか、ご来店の方に銭湯公式キャラクター「特製ゆっポくんタオル」を進呈します(配布本数は各銭湯で異なります)。
今年の銭湯の日は木曜日です。
実施日が異なる場合や諸事情により実施できない銭湯もあるので、ご利用の銭湯に事前にご確認ください。
都内の銭湯の場所は<東京銭湯マップ>から検索できます。
是非、ご近所の銭湯を検索してご家族でぜひお出かけください!
銭湯の後は美味しいご飯を・・・
この記事を書いた人
『イートラスト株式会社 CS・テクニカルチーム 課長/ B-rise運営事務局 副局長』
飲食業界で現場・SV・マーケティングを経験し、2014年イートラスト株式会社へ入社。ディレクター業務・カスタマーサポート業務を経て、現在はSEOやホームページ運用全般を請け負う「テクニカルチーム」を立ち上げ、責任者を担う。飲食業界に携わっていたこともあり、サービス業様へのWebマーケティング・SEO/MEOで貢献していくため、日々新しい試みを模索している最中です。